賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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賀川豊彦全集の初版が刊行された際、配本される巻には月報が必ずついていた。おそらくその後、それらの文は忘れ去られているかもしれないが、いくつかの記 事には重要な情報が記載されている。何点か取り上げて、読者にお伝えしよう。
本日は「月報21 第10巻添付 昭和39年5月」より、直接引用する。
「"世界連邦運動"生みの親、育ての親」 小塩完次(国際平和協会常務理事)
一九六三年の世界連邦大会のファイナル・セッションで、事務総長の西村関一氏があいさつして「この機会に、いまは地上になき方々ですが、忘れることのできない三人の先覚者がある」とて、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎の名をあげ、大きな感動をよんだ。
もしも賀川先生がおられたら、どんなにかこの大会を喜んでくださったことであろうとは、誰もが思ったことであった。「日本で世界連邦大会をひらく」ということは、一九五〇年、賀川先生が、招かれて英国伝道におもむかれたとき、一日、英国国会内に本部のある「世界連邦のための国会議員団」を訪問せられたとき、労働党の若手議員のチャキチャキで、百万人に一人の代表を選出して「世界憲法起草人民会議」をひらこうという計画を提唱していたヘンリー・アスボーン氏が、「カガワさん、日本で世界連邦会議を開催していただけませんか」と、熱心にもちかけてきた。これがキッカケであったといってよいであろう。
もっともそのころ日本においても、毎日新聞は社説で「世界連邦の可能性」を書いたし、NHKは日比谷公会堂で放送討論会をひらいて「世界国家はできるか」を、まともに探りあげていたし、わたしたちとしても、はじめて東京市民にデビューした「世界連邦東京大会」で、「世界大会の日本招致」を決議していたのだから、賀川先生を介してのアスボーン提案は、渡りにふねというか、魚ごころに水ごころですらあったのだ。
アスボーンの申出は、「できるならヒロシマで……」ということであった。賀川先生からは、すぐさま、ときの首相吉田茂氏、衆院議長の松岡駒吉氏、それに広島市長浜井信三氏らあてに、それぞれ電報が発せられた。私はときをうつさず広島に走り、楠瀬知事、浜井市長らとこの件について話し合った。その前の年の五月三日には、賀川先生のお伴をして広島に出かけ、市主催の憲法記念日講演として先生は、「世界永久平和の創造」の題で語られ「平和への道は世界連邦あるのみ」とのタネまきをしておられたことでもあり、県市とも、二つ返事で「やりましよう」、「お引受けしましょう」ということになった。
そうはいっても、赤ハダカに焼けただれたままの広島であり、ホテルらしいもの一つあるでなし、地元だけで、どうにもなるものでない。国として相当力を入れてくれるならお引受けする、というのが、各方面有力筋の意向であった。私は、かまわず「出来ます」という返事を、ロンドンの先生あてに打ってしまった。何んとしてでもやるべきであり、やらねばならないと考えたからで、先生からの電報なるものが、一応可能性の検討をという形をとっているものの、じつは「やれ」という鶴の一と声だ、と読んだからである。(翌二十七年の十一月、第一回世界連邦アジア会議は、賀川議長のもとに、見事に挙行された。) そのころ、世界連邦建設同盟は、碌な事務所にもありつけず、あちこちを、さまよい歩いていたのだったが、「うちへ来なさい」と、先生から拾われて、神田錦町の「カガワ事務所」に引取られた。以来八年有余、賀川先生の主宰する国際平和協会と同居し、協会の機関誌「世界国家」を、賀川豊彦主幹-同盟編集-協会発行という形にして、同盟の機関誌に代用させていただいた。こうなった一、二年後のこと、武藤富男氏に、同誌の編集を一任して、面目一新の大発展をやったこともある。当時、毎号の「少年平和読本」が呼び物だったが、これは賀川先生の講演を台にして、村島帰之氏が麗筆を揮ったもの。チョコザイにも、ここはこうしたほうが世連理諭にかなうから……などと、私が勝手な筆を加え、どうでしょうかと先生に見ていただくと、「きみは、うまいね」とほめて下さるので、いい気になって、なおも朱を入れるという大それたこともやった。これと併んでの呼び物に、「新しいまぼろし」と題する続き物の大フィクションがあり、筆者ムラヤマ・タケシは、当の武藤氏であった。武藤流の型破り編集で、常識では巻末に六号活字でゴチャゴチャ詰めこんでおくていの内外情報を、巻頭にもってくるというドンデン返しをやり、それを、先生は、「面白いね」と、ケシかけるので、編集委員会はケンカにもならぬという一と幕もあった。
昨秋の京都会議のあと、私は、世界連邦運動の草分けの一人といわれているスイスの国際法学者ハビヒト博士、アメリカのメソジスト派社会総局「平和と軍撤、世界機構部長」という肩書をもつロドニー・ショオ氏らとチームを組んで、金沢市を訪れたが、車中、ハビヒト博士から、若かりし日に、ジュネーブでカガワ講演を聴いて感奮したものだと聞かされ、さてさて賀川先生の世連運動歴も永いもの、古いものだと感激一入なものがあった。
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