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賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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『もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密』 No.2   (日本週報468号より)
 

「外相の許可はあてにならぬ」

 ともあれ、日劇地下の喫茶店での決定に従って、筧氏は早速、賀川氏引出しの説得にかかった。はじめのうちはなかなかウンといわなかった賀川氏も、再三の説得にとうとう使節として渡米することを承諾した。「時期はすでに過ぎている。しかし世界平和のために、できだけの努力をしてみよう」賀川氏の承諾を得た筧氏は、つぎに、キリスト連盟総監事の都田常太郎氏を訪ね、実情を話して協力を頼みこんだ。都田氏はこの話を聞いて大いに喜び、すぐに同連盟の名誉監事で、著名な親日家である、アキスリン博士を招いて相談した。博士ははじめ、憲兵隊に検挙されて釈放されたばかりの賀川氏では、政治的な臭みがあるとして、アメリカ側が不安を持つのではないかと言って、賀川氏の派遣に賛成しなかった。しかし博士も、賀川氏のアメリカでの人気を知っており筧氏の説得もあって、結局、賀川使節を送ることに同意した。しかも都合のよいことには、これより先に、キリスト連盟の日米関係委員会でも、独自にアメリカへ使節団を派遣する予定であった。

 


この使節団の一人として賀川氏を送れば、日本の軍部や熱心な開戦論者たちも、まさか賀川氏がアメリカへ行って、反戦世論を作ろうとしているなどとは考えつくまい。

「三月下旬に太平洋岸で、祈祷と、日米平和を保存する方法を探求するために、両国クリスチャン指導者の会を開きたい」という電報が、アメリカの、日本に伝道している教会各派の指導者に送られたのは、それから間もなくであった。先方からは、間もなくOKと 打電してきた。福田氏はただちに、この返電を持って松岡外相を訪れた。ちょうど、どこかへ出掛けようとしていた外相は、玄関先で、案外簡単に、「先方から 言ってきたのならよかろう」ということで、使節団の派遣に同意した。もちろん賀川氏が一行に加わって、アメリカ朝野を説得して回ることなどは、外相にも話 してない。飛ぶようにして寺崎氏のもとにかけつけて、福田氏が外相の話を伝えると、寺崎氏は、「外相の許可はアテにならない。いつ取消されるかわからない から、次官の大橋さん(忠一氏)にも話をつけておこう」という。大橋氏のところへ行ってみると、かつてYMCA幹 事のクリスチャンと親交を持って、その人格に傾倒したことのある大橋氏は、クリスチャン代表が日米関係打開に一役買うことに大賛成で、すぐに許可した。寺 崎氏はその足で、陸海軍の軍務局を回った。「使節団の派遣は、あくまでクリスチャンとして宗教的な目的のために行くのであって、なんら政治的な運動をする ものではないから、その旨、承知されたい」と伝達するためである。政治問題や外交交渉には口を出さないから、後になつて使節団の渡米に反対するような空気 を、作ったりしないでくれということである。


「アメリカ局長もツンボ桟敷(ママ)」

 計画の性質上、この使節団の目的や、団員の氏名については極力秘密にしていたので、当時のアメリカ局長朝海浩一郎氏(現アメリカ大使)にも、くわしいことは話しておらず、外務省では、寺崎、福田の両氏と第一部長結城次郎七氏と事務担当官しか、賀川ミッション渡米の真相を 知っていない。一行の旅費は、教会関係の二、三の実業家の協力で準備でき、三月の中ごろになって使節団の人選をはじめた。あまり早くから団員をきめておく と、それだけ噂も高くなって、世間も騒ぎ出す。それでなくても主戦派の人たちや新聞記者に知られれば、かならず横槍が入って計画は水泡に帰してしまう。ア メリカへ渡ってしまうまでは、秘密を守っておきたい。キリスト連盟の幹部の中にさえ、アメリカの信者代表と会合することを、にがにがしく思っている者があ るのだ。

 なるべく人に 知られないように、団長以外はこんどの渡米について、なんにも喋らないようにと注意していたものの、関係者は思わぬところで胆を冷やしたことがあった。団 員の一人に選ばれた直後、帰郷して盛大な歓送会を催した人があって、その記事が地方新聞に出たりして、みんなを驚かせたことなどもある。

 幸いなことに、東京ではそうした不手際もなく、だれ一人として、一使節団の渡米に疑いの目を周けるヒマもないうちに、一行はアメリカめざして出発することになった。問題の人である賀川氏は、見送入の目につかぬように、みんなとはなれて、隠れるようにして上船した。

 団長はメゾイスト教会(ママ)の安部義宗氏、副団長は小崎道雄氏、はじめ代議士だからということで問題のあった松山常次郎氏も一緒に行くことになって、一行十六人、アキスリン博士も案内役をかつてアメリカへ渡った。

外務省全体の空気は、もともと使節団には冷淡なのだから、在外公館(大使館、総領事館、領事館など)から使節団についての報告を開くことはむずかしい。とり わけ賀川氏の仕事であるアメリカ朝野の説得ということについては、在外公館ではぜんぜん知らぬことなのだから、日本ではことの成否を知渇ことが絶対できな い。しかも一行が帰ってくるまでには、国内の情勢もどう変るか見当がつかない。郵便、電信、電話などを使えば、すべて秘密が洩れてしまう。一行がホノルル に着いたときには、総領事からの電報で、全員無事であることはわかったものの、その後の賀川氏の動静については、くわしい様子がまるでわからない。そこで 寺崎氏は、福田氏を外務省から南米への特使として派遣する方法を考えた。アメリカ経由で南米へ向えば、人目につかず、途中で賀川氏と会って話を開き、今後 の方針も打合わせることができる。

 「福田特使アメリカへ飛ぶ」

 外務省と情報局の許可を得て、南米特使となった福田氏は、アメリカで賀川氏の秘書の小川氏と会って、十分に意見を交換した。そして日本で吉左右を待っている寺崎、筧の両氏は、「成功しているようだ」という福田氏からのたよりを得て安心したのだった。

 使節団一行は 四月二十日から二十五日まで、カリフォルニア州のリバーサイド市で、アメリカ側の教会代表者たちと会議を開いた。これには多数のアメリカ人牧師が参加し て、日米両国の平和を祈り、平和維持のための運動をおこす決議をした。さらにロスアンゼルスではアメリカ人牧師たちは、天長節の四月二十九日に、一行の歓 迎会を開き、その席上、天皇の誕生を祝う決議をするといった親善ぶりである。

 このころの状況はまことに明るい見通しのできるもので、東京に残った人たちは意外の成功に、大喜びしていたのである。賀川ミッション渡米の目的は見事に達成されるかにみえた。ここで当時の日米交渉全体について、ざっとふりかえってみょう。

 前年十一月から日米交渉に当っていた野村大使とハル国務長官との間には、紛糾した日米交渉にも、まだ外交的な平和解決の道が残されているかのようにみえていた。

 アメリカ側から、国務省の内命を受けたドラウト牧師とウォルシュ氏、日本側から近衛首相と連絡のある井川忠雄氏と、陸軍軍事課長岩畔豪雄大佐を加えた四人の間で、交渉試案が作られていた。これが日米諒解ハル私案である。

 この試案は、日本軍が中国から撤退することを条件にして、アメリカが日中間の平和を仲介して満州国を承認し、さらに蔣・汪政権を合併すること、日本・中国間の防共共同 防衛と経済提携をはかること、日米通商関係の正常化、アメリカの対日クレジットの供与と、日本の南方資源獲得に対する協力を規定していた。アメリカはこの 試案をそのまま提案したわけではないが、ハル長官は、この案を討議の基礎にして、非公式交渉をはじめることを野村大使に提案したのである。(続く)

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プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
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