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以前、賀川の日米開戦前秘話として、賀川の平和使節団を何度か取り上げた。その総括的な資料があるので、そちらを掲載してみたい。当初は文面そのものは避けて、概要を筆者が報告というかたちで掲載するつもりであったが、やはり客観的な歴史的検証をしてゆくには、多くの方と資料を共有し、そこから研究や議論を発展させねばならないと考え直すに至った。そこで、資料の記述をのまま掲載するので、あとは皆様のご裁量にお任せしたいと思う。
「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」No.1(日本週報468号より)
「賀川ミッションの秘密」日劇地下の秘密会談
話は昭和十六年の正月にはじまる。まだ松飾もとれない六日の夕方。東京の空は重苦しい雨雲に覆われていた。つい二、三年前なら、正月の六日といえば、まだ屠蘇気分で、街には酒に酔った紋付姿の人も見受けられる時刻だが、この年の正月は、まったく、正月らしい気分など、どこにも見当らない。大戦気構えで、一般の商品が品薄の上、ヨーロッパ戦線の拡大、日米関係の緊張などが、都民の心にのしかかって、銀座通りも灯の消えたような淋しさだ。その銀座から有楽町へ向つて、三人の男が歩いていた。一人は背の低い五十年配のやせた男だが、連れの男は見るからにエネルギッシュな、四十年配の働きざかりといった感じである。二人は数寄屋橋を渡ると、すぐ右にある日本劇場の横手の階段を降りて、地下の喫茶店に入った絹がランとした店の中には、なんのかざりも無く、二人の他には客もいない。コーヒーを注文した後、四十年配の男が声をひそめて、なにやら真剣に話しはじめた。「このままでは、どうしてもはじまりそうだ。外務省でも松岡さんはじめ、ほとんどの人が開戦は避け得ないと思いはじめている。勝っても負けても、トクをするのはロシャだけだ。なんとかして戦争に持ち込まないようにしなけりやならん」からだ中からしぼり出すような、押し殺した声で、相手を説得せずにはおかぬ、といった様子である。 顔をつき合わせるようにして話していた二人は、やがて相談がまとまったらしく、喫茶店を出ると、日劇の前で右と左に別れた。すっかり夜の更けた街に消え去った二人の間には、このとき次のような相談がまとまっていたのである。
一、現在の状況では対米開戦は避け得ない。これを阻止するための運動を推進しよう。
一、そのためには、もはや外務省を通しての日米交渉では解決困難であるから、強力な民間外交によって、両国民の世論を、開戦阻止の方向に持っていくように努力しょう。このさい日本では世論喚起の余地は少ないから、アメリカ人の間に反戦論を強めて、国務省の態度に強い影響を与えるようにする。
一、そのために賀川豊彦氏を使節として派来し、アメリカ朝野を説得させる。
一、日本の対米方針が平和外交を断固としてつらぬくよう、寺崎太郎氏と協力して運動を展開する。さらに、この運動は、あくまでも日米両周の平和のためにおこなうのであるが、その根本となるのは平和主義、人道主義の立場であって、主戦論者や軍人などに、逆利用されないようにしなければならない。そのため、外務省内でも、ごく一部の人だけには実情を打ちあけるが、旅費その他の経費は、民間から集めなければならない。計画はきわめて秘密に運ぶ必要があるから、協力者も厳選しよう。
「『週報』編集室の仲間」
こんな重大なことを相談した二人の男は、いったいだれなのか。やせた五十年配の男の名は寛光顕。氏は終戦後、立教大学に英文学教授として迎えられ、同大学で発行する英字新聞の監修者としても、あざやなか腕をみせた人で、また日本のキリスト教連盟に、きわめて顔の広い典型的なクリスチャンである。いま一人の男は、現在の自民党副幹事長福田篤泰氏である。筧、福田の両氏は昭和十六年当時、ともに情報局週報課に勤務して、雑誌「週報」(日本週報の前身)の海外版である。「東京ガゼット」の編集に、たずさわつていた。
寛氏は、日本人ばなれした英語と鋭利な国際感覚のために、また福田氏は広報活動を担当する外務官僚として、情報局に出向して、ともに週報課の一室に机を並べて仕事をしていたのである。仕事の性質上、福田氏は、緊迫する日米関係について、豊富な情報網を持っていたが、情報をえるたびに、日米関係は藩化していく様子である。大きな時代の流れは外務省の一課員には、どうあせってみたところで、阻止することはできない。しかし福田氏がロンドン駐在時代に、コンビを組んで仕事をした寺崎太郎氏は、いま本省の一課長であるが、外務省きっての親米派である。カを合わせて努力すれば、なんとか戦争を回避することができるかも知れないと考えていた。
そして周囲の壁の厚さに、手も足も出ないでいるうちに、ふと思い出したのが、いつも机を並べて仕事をしている寛氏が、キリスト教関係に顔が広いということであった。
「賀川使節を提案する」
正月はじめの編集会議が終った後で、福田氏は、さも気軽な様子で筧氏を日劇地下の喫茶店に誘い出したのだつた。もともとアメリカに多くの友人を持ち、日米開戦には絶対反対と心にきめていた筧氏である。両氏の意見は、たちまち一致して、筧氏のほうから、
「アメリカへの使節は、賀川さんを措いては、絶対に人なし」と賀川使節を提案したので あつた。賀川氏が神戸で社会事業をはじめたころから親しく交際し、しかもアメリカのクリスチャンの間に賀川氏が、絶対的な説得力を持っているのを知る寛氏が、この仕事をなしとげる人は賀川氏の他になしと確信したのも当然だろう。賀川氏の機関銃を打ち出すような早口の英語演説が、アメリカ人の間に爆発的な人気を持っていたことは有名な話である。はじめて賀川氏の演説を聞くアメリカ人には、ほとんど聞きとれぬほどの早口であるが、聴衆は賀川氏の声を開き、顔を見るだけで、満足して帰ったといわれるほどだ。
ところで、その賀川氏は、これより先、昭和十五年末に、憲兵隊に検挙されたが、間もなく釈放された。検挙されたのは危険思想(平和思想)の持主であるためだが、釈放の理由は、はっきりしていない。まさか、検挙してみたら、賀川氏が平和思想の持主ではなかった、というわけでもなかろう。
戦後になって、極東裁判の法廷で、当時の外務大臣で親独、反米の提唱者であった松岡洋右氏は、この点について、「賀川氏のような平和主義者を逮捕することは、日本が日米開戦に踏み切ったと誤解されるおそれがあるから、早々に釈放するように、と憲兵隊に要求して、氏を釈放させた」と言っている。(続く)
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