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賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。 (主観的な情報も含まれますので、館としての公式見解でないものであることをあらかじめご了承下さい。)
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「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」 No.3 (日本週報468号より)


「有馬邸で近衛・賀川会談」

 四月十七日には近衛首相のもとに、野村大使のハル私案に関する請訓が届いている。

 終戦時の首相東久遠稔彦氏の「一皇族の戦争日記」(日本週報社刊)には当時の日本の外交について、つぎのように書かれている。

 四月十八日(金)

 (前略)松岡外相の訪欧は独伊訪問が主目的でなく、日ソ交渉が主たる目的であった。日ソ交渉は行き悩んでいたが、最後の瞬間に急転して中立条約を締結するに至った。この日ソ中立条約の英米文に与えた影響ははなはだ大である。現在、野村駐米大使も、米国ハル国務長官との間に、日米関係改善について少しずつ話を進めつつある。使節団一行はアメリカ各地を回って、六月に帰国した。何十万、いや何百万、何千万という多数のアメリカ人の心に、平和の維持と日米親善を吹きこんで帰ったのである。スタンレー・ジョンズ博士はルーズベルト大統領に、日本の人口問題解決のためにニューギニアを譲渡すれば、日米間の平和は維持されるだろうと提案するなど、さまざまな平和維持のための世論がアメリカに生れた。アメリカの教会関係者や平和主義者からは、使節団の帰国後、激励と感謝の手紙がぞくぞく送られてきた。一行の渡米の目的はいちおう達せられ、アメリカの世論は軟化したのである。だが、これら日米両国の人々の善意と友情は、国際外交という無情な鉄槌によって、打ちくだかれることになる。


ベルリンでヒットラーと会見し、帰途モスクワで日ソ中立条約を結んだ松岡外相は四月二十三日に帰国して以来、ことごとに日独伊三国同盟のカを誇号してきた。徹底した親ドイツ、反アメリカ外交である。

 六月二十一日にはアメリカ側から日米交渉についての正式提案があったが、これには、それまで日本側が要求していた満州国の承認や、防共共同防衛、経済提携がはずされており、しかもアメリカ側から見れば、日米交渉のガンになっていた松岡外相の更迭を、暗に要求する口上書が付してあった。そして、このアメリカ提案が渡たされた翌日(六月二十二日)に、ナチス・ドイツの誇る機甲部隊はヨーロッパの全域にわたって、ソ連領に大雪崩のような進軍をはじめたのである。

 

「第三次近衛内閣と南仏進駐」

 七月に入ると近衛首相は、松岡外相を辞めさせるためだけの理由で、十六日に総辞職。十八日には第三次近衛内閣が誕生した。注目の外相に海軍の豊田貞次郎氏が起用ざれ、豊田外相-野村大使という親米外交ラインがひかれて、日米関係にも曙光がさすかにみえたが、大勢はついに動かし得ず、七月二十八日、日本軍は南部仏印に進駐したのである。

 南部仏印への進駐は、日米交渉に、致命傷を与えた。このときまで日本が、極東ソ領へ向う北進論をとるか、アジアへ向う南進論をとるか、注目していたアメリカは、日本が南方へ武力進出することを確認したのである。ただちにアメリカは対日石油輸出を禁止し、米英両国は領土内のすべての日本資産を凍結するという強硬手段をとった。

 このように悪化した国際情勢のもとで賀川ミッション構想は、ほとんど失敗するかに見えた。ところが、九月に入って情勢は三転したのである。近衛首相は日米交渉打開の最後の手段として、この人たちの手を通じて、ルーズベルトに接近しょうと試みたのである。賀川ミッションのつちかってきた、アメリカにおける親日感情とクリスチャンの平和主義を頼みの綱にして、ルーズベルトを動かそうというのだ。

 このときすでに、内閣における東条陸相の権力は首相をしのぎ、首相の行動はすべて東条直属の憲兵隊の監視するところになっていた。

 近衛首相の賀川氏への会見申入れは、有馬頼寧氏を通じておこなわれ、会見場所は有馬邸ときまった。首相とは人生観も対米感情もちがったものを持ち、首相の政治方針にも批判的だった賀川氏だが開戦気運を前にして、首相の招きをことわることはできない。有馬邸での会見は秘密のうちに行なわれた。会見を終った賀川氏は、すぐにアキスリン、都田、筧、福田、寺崎の諸氏に、電話で一、キリスト連盟事務所に集まるように通知した。

「ルーズベルトに、なんとかして開戦を避けるように頼んでもらいたい」

という近衛首相の希望を実現するためである。それはとりもなおさず、この人たちの目的と同じなわけだ。連盟の事務所に集った人たちは、熱心に相談した結果、ルーズベルト大統領、ウアレス副大統領、世界YMCA会長モットー博士、スタンレー・ジョーンズ博士、それに国際的な弁護士で国務省にも顔の広いジョン・ダレス氏(熱心なクリスチャンで現国務長官)の五人に宛てて同文の電報を打った。「キリストの名において、貴下にお願いする。両国の迫りつつある破局を回避するために、あなたのすべての力を使ってほしい。太平洋の平和を維持する新しい方瀧を見出すために、私たちは最善を尽す。貴方も最善を尽してほしい」この電報に対する回答は、ダレス氏、モットー博士、スタンレー・ジョーンズ博士の名前で、打電されてきた。

「日本の当局者が、一九四〇年のフィラデルフィアにおけるキリスト教会議で決議された『日米平和の基礎』にもとづいて、交渉するという確言を与えるなら、私たちも努力しょう」というものであった。この中国撤兵、満州国不承認などを前提としなければならぬ交渉内容は、近衛首相、豊田外相の尽力にもかかわらず、とうてい、東条陸相の受入れるところではなく、猛反対に合って、ついに陽の目をみることなく押しつぶされてしまったのであった。

 「真珠湾を攻撃す」

 かくて十月十六日、交渉打開の最後の望みも消えて、近衛首相は野に下り、かわつて東条内閣が、出現することになった。すでに日米両国が進むべき道は、決った。善意と信頼を前提とした人間の努力だけでは、いかんともしえないまでに、両国の関係は破局へ向つて突進して行く。十二月のはじめスタンレー・ジョーンズ博士から、賀川氏宛の手紙が届いた。「ワシントンの教会で、平和のための祈りをする。東京でも同じくしてほしい」という文面である。アメリカの人たちにも、すでに人間の手によっては、平和を維持することの不可能なことが、わかっていたのかも知れない。

 賀川氏をはじめ、熱心なクリスチャンたちが、東京YMCAのチャペルで、一週間の祈縛を終って街に出た朝、海軍機動部隊の真珠湾攻撃を告げるニュースは、日本中を興奮のルツボにたたきこんでいたのであった。

 賀川ミッションの、ヒューマニティーにもとずく戦争阻止の運動は失敗した。だが、開戦後まもなくアメリカの雑誌「クリスチャン・センチュリー」に掲載された文章は、よくこの運動の本質を語っている。戦後十三年、賀川ミッション渡米の真相をとりあげる所以もここにある。

「使節団の渡米と、これを計画した人たちの行為は、将来、日本がどのようになろうとも、世界平和の維持に関して、日本人がいかに努力したかを立証する金字塔となろう」
 (以上、すべて原文のママ)     終わり

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プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
52
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
博物館学芸員
趣味:
資料整理、バイク
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