忍者ブログ
賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
[7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14]  [15]  [16]  [17
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


関東大震災で焼けた東京YMCA

連休とはいえ、小生は変わらず資料館詰めの毎日である。東日本大震災から来週で二カ月を迎えようとしている。まだまだ原発事故は予断を許さないが、すでに東北各地では復興が徐々に進んでおり、明るい話題も聞かれるようになった。

ここにきて振り返ると、以前雑芸員は、東大YMCAよりお招きを受けて、関東大震災と賀川豊彦という講演をさせて頂いたことがあったことを思いだした。その時お話した内容を、せっかくなので紹介してみたい。


賀川豊彦と関東大震災

1923年9月1日、神奈川県相模湾北西沖80キロを震源として発生したマグニチュード7.9の海溝型の大地震が発生しました。東京、神奈川、千葉、静岡などの南関東地方の広い範囲に甚大に被害をもたらせ、死者行方不明者が10万5千人、全壊した住宅が11万、半壊10万、消失した家屋が21万に上ると記録されています(参照理科年表)。

近代化を迎えた日本が直面した、未曾有の災害に、日本中が震撼しました。この知らせはようやく翌日になってから、関西で活躍していた賀川豊彦の耳にも入ります。その日は日曜日でしたから、礼拝の終わるやいなや神戸のキリスト教関係者へすぐさま連絡をはかり、協議ののち自らも被災地へと向けて出発いたします。

午後6時出発の山城丸に乗り、翌3日に横浜に到着、4日に上陸を果たし、徒歩と一部汽車を使って品川まで行きます。流言被害を被った朝鮮の青年を自宅にかくまっていた、旧友中山昌樹の家で泊まり、5日には東京の災害救援事務所を訪れます。そこで、救援物資の状況を聞き、米は十分あるが、資金と衣類などが必要との情報を仕入れました。

                                                                                    b2f41e9d.jpg










災害救援に向かった賀川豊彦(中央)左 末広厳太郎 右 石田友治

そして、神田美土代町の東京YMCAを訪れ、焼け残った石段の前で、大声で賛美歌を歌っていた盟友石田友治と再開します。瓦礫の中で、ともに座して「東京を再興したまえ」と祈りました。しかしそれは、ただの空しい神頼みの言葉ではありませんでした。 灰燼の中で導かれるかのように再開した賀川と石田、仲間たちは、現状の情報交換をし、眼前の人々の救済についての打ち合わせをすぐにはじめたのでした。

石田とは、大正12年3月に東京YMCA講堂で賀川が提唱した「復活共済組合」に賛同して以来、昭和17年に召天するまで約20年間、いろいろなこともあったようですが、盟友として共に医療組合設立など数々の活動を行った仲でした。

その後彼らは上野へと足を向けます。これは、上野公園で始まっていたミルク配給所の様子を見に訪れたのでした。数人の奉仕する青年らが、新しい荷車にコンデンスミルクとバケツを載せて引いていく姿を見て、賀川は喜びます。当時の若者のボランティア活動がそこにはありました。

そして小高い丘から帝都東京を見渡したのですが、そのあまりの惨状に、賀川は茫然自失となりました。まだ火はくすぶり続けており、東京の焼け野原を前にして、立ち尽くしたのです。この時賀川は、2万4千坪の敷地に3万8千人が焼け死んだといわれる、陸軍被服廠跡地を訪れてはいませんでした。

その後すぐに、6日朝、品川から汽車と徒歩で横浜へ戻り、材木船東華丸に好意で乗せてもらって、清水港までゆき、そこから汽車で神戸へ帰ります。戻ってみると、二日間は眠れなかったそうでした。戻るまでは必死であって、とても感情の浮かぶ間もなく、東京・横浜を歩いたことがまるで夢心地であり、神戸に戻った安堵感の後、ようやく賀川は現実を味わうのです。

親しい友人の死、また数十万の人々の死と壊滅的な東京の現実に、じっとしておられなくなるのです。そのときの彼の心境は、「東京横浜が癒されるまで私は半狂乱である」と激しく述べられてております。

必死になって被災地の視察と、その後の救援の打ち合わせを果たした賀川は、戻った神戸で初めてこみ上げてくる悲惨な光景と痛恨の想いなどの複雑な心理に向き合ったのでした。しかし賀川は、そのエネルギーを、その後救援活動へと向かわせてゆくのです…





PR


Twin Pines Cooperative Foundation(米国の生協)の
David Thompson氏による講演会が開催されるとの情報が、生協総研の方より届いた。チラシが送られてきているので、ごらんあれ。なんと、賀川豊彦についての講演内容である!

”BrotherhoodEconomics:Revolution through Cooperatives ”と題し、また掲載されている新聞の賀川の写真は、ダートマス新聞の1936年4月30となっている。奇しくもその75年後の4月30日にこの講演会は開催されるのである。

ハノーバー生活協同組合ソサエティは、チラシによれば、1936-2011という実績の生協さんである。1936といえば、賀川豊彦が、前年暮れから渡米し、ルーズベルト大統領らの依頼で、ニュ-ディール政策の一環としての協同組合運動を推進する運動をになった年である。6月にニューヨークからヨーロッパへ渡航するまで、大変な数の講演会(『世界を私の家として』全集23巻に詳しい)を行っていた時の果実の一つであろう。賀川の種まきは、いまもこうして続いているのである。




http://ameblo.jp/tensaij/

世界連邦国会委員会で事務局次長をしている、塩浜氏より、本日奇怪なことが起きたとの連絡があった。
詳細は上記を読まれたり。

なんとも不思議なことというか、これを題材にしたドラマ・シナリオを書いてみたいと小生は感じた。どなたか挑戦してみてはいかがだろう?

地震以後、なかなか落ち着かず、最近はweblogも入れられないでいる。積もる話があるのだが、いずれまた。
昨日は、賀川関係団体・協同組合連絡協議会が開催され、昨日はJA全中の常務様からの報告のほか、特別に全漁連の常務様からも、被災状況をお聞かせ頂いた。いずれ報告したい。

取り急ぎ
全国漁業協同組合連合会より、募金の案内が届きました。

地震発生後の津波の生々しい映像を多くの方がご覧になられたかと思います。流される海上の漁船、崩れる防波堤、海浜地域の漁業関係者が甚大な被害を受けたことを、皆さまは目の当たりになされたかと思います。

すでに各方面の募金へご協力を始められておられるかと存じますが、合わせて、漁協様への募金協力も何卒よろしくお願い申し上げます。

http://www.zengyoren.or.jp/oshirase/pdf/tohokushinsaibokin.pdf


また日本生協連合会は以下のように案内を出しています。最新の情報もあるので、随時ご確認下さい。(辻元清美内閣補佐官と意見交換する、山下俊史会長が掲載されています)こちらの募金協力も、よろしくお願い申し上げます。

http://jccu.coop/

こんなときですからこそ、皆さんで助け合いましょう!

(賀川関係者での支援は、現在検討中です。進みましたら、掲載します。)





ご心配をおかけしていますが、先週の地震直後当館では、以下のように、展示品への影響があったが、特に大きな被害は生じなかった。しかしながら、計画停電や余震がいまだ続いていることから、今週いっぱい休館にしている。006.JPG








この度の地震で、NGOの特設募金が行われているので、ご案内したい。当法人も今後の支援への対策を検討している。
http://www.janic.org/bokin/matomete/matomete14.php

これまで、様々に関係してきた団体さんが多数名を連ねている。


賀川豊彦は、1923年の関東大震災のときに、発生からわずか数日のうちに東京へはいって現地を観察してから、神戸へ帰り義捐金を西日本にいたるまでかき集めてから、再び東京へと入って、支援活動に専念した。レスキュー、リリーフ、アフターケア、そしてリコンストラクション&リカバリーへとつながる一連の活動は今日でもたたえられている。

そのために、彼がなしたのは、神戸のスラムで貧困に苦しむ人々と、ともに生きる際に得た、様々な経験を駆使したいということであった。被災後の非常事態という危機的状況の中で、賀川は神戸の貧困という危機的状況からの改善をモデルにして適用したのだが、特にかれはコミュニティを形成することで、人々の助け合いを推進していった。江東消費組合、学生消費組合、中ノ郷質庫信用組合などなどである。また彼は各地で集会を開いては、人々を励まし、希望を与え続けていった。鳳凰は灰燼より甦ると、焦土のようなところからさえ、起き上がれることを説いていった。

賀川の活動の足跡を追いながら、今回の震災に少しでも生かせればと願うものである。
尚、以下の写真は最新の収蔵資料である。賀川が関東大震災後に詠んだ詩であるが、巡り巡って当館の収蔵となったが、最新の入手資料が、奇しくも震災に関係したものであるとは、なんとも不思議なものである。
詳細はまた別な機会にしたい。
013.JPG
カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
フリーエリア
最新コメント
[05/17 Backlinks]
[02/28 雑芸員]
[02/27 荻田(長尾)香世子]
[08/31 N. F]
[11/19 雑芸員]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
博物館学芸員
趣味:
資料整理、バイク
バーコード
ブログ内検索
Copyright © 賀川資料館 学芸員のひとりごと All Rights Reserved.
Designed by 10p
Powered by Ninja Blog

忍者ブログ [PR]