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賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。 (主観的な情報も含まれますので、館としての公式見解でないものであることをあらかじめご了承下さい。)
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以前、賀川の日米開戦前秘話として、賀川の平和使節団を何度か取り上げた。その総括的な資料があるので、そちらを掲載してみたい。当初は文面そのものは避けて、概要を筆者が報告というかたちで掲載するつもりであったが、やはり客観的な歴史的検証をしてゆくには、多くの方と資料を共有し、そこから研究や議論を発展させねばならないと考え直すに至った。そこで、資料の記述をのまま掲載するので、あとは皆様のご裁量にお任せしたいと思う。

 さて問題の資料は、『日本週報第468号』昭和331225日、日本週報社発行(pp.4-14 である。表紙の見出しに「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」とある。印象に残る文言だが、皆様にはとにかくご一読願おう。

日本週報第468

「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」No.1(日本週報468号より)

 日米戦争については、戦後、いろいろの秘録、秘話が公開された。だが、戦後十三年たった今でも、伏せられている興味深い話はたくさんある。ここに紹介する〝賀川ミッションの秘密〟もその一つであり、米国内ではげしくなっているルーズベルト大統領攻撃の「偽われる開戦責任者」も、すでに事柄が時効になった今日にして初めて明かされる真実への追求であろう。

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これも、賀川豊彦全集月報からの引用である。日米会談のことは多くの人の情報は飛びかう。今後はこれらをきちんと整理してゆく必要があろう。しばらく目につく限りご紹介したい。その後しっかりと歴史的検証をした上で、開戦直前に賀川が関わった日米会談の顛末をまとめてゆきたいと思う。
 
 
月報12 昭和38年8月 第23巻添付
 
「日米会談の舞台裏」             阿久沢英治
 
 昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、「阿久沢君、日米会談をどう思うか」という質問を発せられた。その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国民を挙げて心を痛めていたのであった。日米会談というのは、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公が事変の収拾をもてあましていたおりから、十五年十一月二十九日、米国カトリックの最高学校メリーノールの事務総長でカトリックの神父補助監督ドラウト師が産業組合中央会理事井川忠雄氏と会見したのに端を発し、近衛ルーズベルト会談の案が持ちあがり、その計画は近衛総理の共鳴となり閣議を動かし、十六年一月二十三日野村大使の特派にまで進展し、ついで井川氏及び当時陸軍軍事課長であった岩畔泰雄氏等の出発となったのである。
引き続き、賀川全集の月報の文を紹介する。 賀川全集 月報4 昭和37年12月第18巻添付
 
 
「政治家以上の人」              西 尾 末 広
 
 
 わが国の労働運動や社会運動は、とくにその初期において、キリスト教の影響をうけることが多かったし、クリスチャソ出身の優れた指導者が輩出して、大きな功績を残している。その中でも、私にとって忘れることのできない人は、安部磯雄氏と賀川豊彦氏である。
 両先輩ともに、今の言葉で言えば民主社会主義者であり、議会主義者であった。そして何よりも、徹底した信念の人であった。
 賀川さんは、大正七年から十一、二年ごろまでの数年間、関西における労働運動の中心的指導者だった。賀川さんが労働運動に入った動機は深くは知らない。それは多分、神戸の貧民街でのイエス団の運動から生れた必然の発展だったのであろう。また第一次世界大戦のさなか、二年九カ月にわたって米国に遊学し、キリスト教の伝道に従事するかたわら、先進国の労働運動を実地に見聞して帰国した直後のことであることも見逃すわけにはいくまい。
賀川豊彦全集の初版が刊行された際、配本される巻には月報が必ずついていた。おそらくその後、それらの文は忘れ去られているかもしれないが、いくつかの記 事には重要な情報が記載されている。何点か取り上げて、読者にお伝えしよう。
本日は「月報21 第10巻添付 昭和39年5月」より、直接引用する。

 
 
「"世界連邦運動"生みの親、育ての親」       小塩完次(国際平和協会常務理事)

 
 一九六三年の世界連邦大会のファイナル・セッションで、事務総長の西村関一氏があいさつして「この機会に、いまは地上になき方々ですが、忘れることのできない三人の先覚者がある」とて、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎の名をあげ、大きな感動をよんだ。
 もしも賀川先生がおられたら、どんなにかこの大会を喜んでくださったことであろうとは、誰もが思ったことであった。「日本で世界連邦大会をひらく」ということは、一九五〇年、賀川先生が、招かれて英国伝道におもむかれたとき、一日、英国国会内に本部のある「世界連邦のための国会議員団」を訪問せられたとき、労働党の若手議員のチャキチャキで、百万人に一人の代表を選出して「世界憲法起草人民会議」をひらこうという計画を提唱していたヘンリー・アスボーン氏が、「カガワさん、日本で世界連邦会議を開催していただけませんか」と、熱心にもちかけてきた。これがキッカケであったといってよいであろう。
76a41a20.jpg世界連邦建設同盟発行の「世界連邦思想の系譜」1968年発行を、調べ物をしているとき偶然手にした。これは日本における世界連邦思想の系統関係を掲載したものである。対象とされた人物は、小野梓、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、笠信太郎らであり数名が執筆している。どれも興味深い内容ばかりである。

私としては当然賀川の記事に注目するのだが、これが面白い。これまでは日米開戦前秘話として、賀川の訪米平和使節団が近衛首相の密命を帯びていたことを明治学院大学の園部不二夫氏の記述によって伝えられているが、この掲載記事は小塩完次(国際平和協会元理事)によってさらに詳細に、以下のことが描かれている。

日米開戦の直前、近衛首相は神経の尖った軍部を避けて、ひそかに賀川と会った。それは戦争回避の和平工作を依頼する目的だったが、こんな緊張時に怪しまれずに出向くには、不信を抱かれないようにしなければならない。そこで足を向けたのは、有馬頼寧私邸であった。

その工作の内容とは、大
伝道者のスタンレージョーンズから持ち込まれた話として、日本にニューギニアを買ってもらって、発展する日本にハケ口(人口の)をひらき、日米戦争を不発に収めようとの計画を「近衛・ルーズベルト会談」として太平洋上でやろうというのが要旨である。

園部説では、日中の泥沼化した戦争状態の解決の手段として、ルーズベルトに両国の仲介をして
もらうという内容であったが、この記述では若干印象が異なる。そして賀川ら平和使節団の訪米となるのである。小塩はここで、「賀川ミッションの大芝居」と表現している。

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プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
52
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
博物館学芸員
趣味:
資料整理、バイク
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