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賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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「下座奉仕」 (部分)上段の落款に注目
掛け軸の件では、新資料発見とまで名打って頂いたが、実はすぐにこの資料は公にしなかった。それは、この掛け軸が、これまでの賀川の字体と大きく違っていることが、実は今回の新資料をすぐに公表しなかった主な理由である。しかしながら、地道な調査の結果、当時の賀川は大正12年初頭から、眼病によって目が極端に見えなくなってしまっていたことが、身辺雑記などに散見されている。よって、よっぽどたどたどしく丁寧に書いたか、妻ハルに代筆をお願いしたか、とにかく尋常でない状態での筆記であることは推定された。

また、掛け軸の署名の後の落款が、所蔵している他の掛け軸のものと一致していることがある。上の写真は、収蔵している「下座奉仕」と書かれた、揮毫である。賀川の座右の銘ともいえる言葉である。人の手の届かないところを、お手伝いさせていただくことである。尻拭いといういい方もあるが、ようは相手に仕えることである。この掛け軸の落款が、話題の掛け軸のものと同一なのである。これはかなり根拠としては大きい。

そしてなんといっても詩の内容は、賀川でなければとても詠えない内容であることなどをかんがみて、最終的に賀川のものと判断したのである。

280.JPG左は今回発表した資料の落款










簡単に経緯を述べれば、今年2月にアーカイブズ業界の仲間が集う、「アーキビストカフェ」を当館を会場に開催した際、その時ご参加下さった、国会図書館の方が、メールでこの掛け軸が古書店に並べられていることを後日お知らせ下さった。

その後、賀川豊彦記念・資料館連絡協議会参加の館へ報告(5館連絡協議会では、新資料発見の際には、情報を共有することが会則にある)、お知らせして購入しないかとお勧めしたが、内容が関東大震災の頃のものであれば、東京の館が持つのがふさわしいとなり、結果当館が購入したのである。あとは冒頭述べた、鑑定の時間を要したのであるが、震災復興を願って、ミニ特別展「賀川豊彦と関東大震災」を開催するにあたり、あえて出品して話題を産もうとしたところ、幸い、共同通信の記者が目を留めて下さったので、大々的な公表となったのである。

予想だにしなかった結果となり感謝である。
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 世には、ツイッターなるものが出てきて久しいが、現代の情報の多量化と高速化に照らして、人間側の神経回路の処理速度はそれほど改善されていないせいであろうか、鳥のさえずりのごとく短い文字言語での表意が好まれているようである。小生にはそれほど関心はなく、ほとんど開くことも触れることもないのだが、だからと言ってそれほど不自由を覚えてはいない。 ある方が言うには、世の教育は記憶を高める傾向ばかりで、「忘れ方」の学習が欠けて居ると言っておられたが、忘れるどころか、さして必要かわからない断片的な情報を避ける教育も、忘れられているのではないだろうかと偉そうに構えて自己正当化を保とうとしている。
 
何にせよ、所詮小生は、時代に取り残されているのだろが、それほど一喜一憂するほど情報に渇望するような身分でもないので、必要も感じていないだけであるのだが、そうとは言え、世が短い情報を所望するのであらが、こちらもそれに合わせるのも配慮というものであろう。一つ、賀川豊彦の膨大な文献の中で、面白いと思える一言があれば、短く披露してみたいと欲したまでである。が、これもまたさして必要のあるかわからない断片情報なぬかもしれぬと、はてさてふと考え込んでしまうのだが…

さて、雲水遍路(全集23巻)を読んだ。次号の機関誌の原稿のための下調べであるが、いくつか興味深いことが述べられている。大正13年11月26日から、翌大正14年7月22日に帰国するまでの、アメリカ、欧州、パレスチナ、エジプトなどを遍歴した記録である。この紀行文の随想には、あらためて目新しくも珍しい、玉のような短い言葉が埋まっているように思えてならない。

そのひとつが、

『米国の文学も、米国の演劇も、日本及大陸のそれとは余程標準が違う。米国民は国民的年齢に於いて満十二歳であるとは、何人が評したことか知らないが、実に的中した言である。…』(全集23巻p‐44)

はて、どこかで聞いたことがある言い方なのではあいだろうか?そう、マッカーサーが太平洋戦争戦争直後に進駐した後、日本の民主主義の成熟度をたとえて言ったことばとされた、「12歳」発言と実につながるのである(下記参照先)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC#.E3.80.8C12.E6.AD.B3.E3.80.8D.E7.99.BA.E8.A8.80

賀川が米国民は12歳とは何人が評したことか、と言っていることから考えると、当時、そのような表現方法がすでに米国民に適用されて久しく、一般に言説化されていたとうかがえる。あるいは、賀川が戦後最初にマッカーサーに会見した日本人であることから、うっかりマッカーサーに向ってこんなこと言ってしまって、マッカーサーがお返しに言ったのだろうか?まさか、そんなことはあるまい…

ちなみに、同巻p‐42には、なんとあの大富豪ロックフェラーに招かれて、昼食をとったとあり、ニューヨークのユダヤ人宗教大学から講演依頼があったことが、書かれている。賀川の交流の広がうかがわれる…












上は、賀川が尊敬してやまなかった、長尾巻とともに写した若き日の賀川豊彦である。大正8年に撮影されたものと表記されており、キャプションには、被写体の説明が書かれている。前回、掲載できなかったので、遅ればせながらも掲載させて頂く。

前回、黒田四郎氏の『私の賀川豊彦研究』という書籍に触れたが、その中の冒頭には、以下の近代日中関係史における重要な記述が残されているのでご紹介したい。

しかしながら、この文面を裏付ける別な資料を、現在は見出してはいないので、どなたかお教え頂けないだろうか。特に中国側の資料があれば、大変ありがたいのであるが、中国側の研究者のご協力があっても、かなり難しいことが予想される…

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 【…】 若き日の平和論   「愛の祈りは世界を動かす」

 最近私は所々でサインを求められる場合、賀川先生の言葉を時々書かせて貰っている。その中
に「愛の祈りは世界を動かす」という言葉がある。
 私は一九三九 (昭14)年十二月十二、三日頃、中国の首都南京の隅で、茫然自失、ノイローゼ
気味で悶えていた。その時私は日本のキリスト教界から代表者として送られて来て、南京に着い
たばかりであった。それより二年前の一九三七 (昭12)年十二月、日華事変で日本軍は南京を占
領し、入城後数日にして恐ろしい南京事変が勃発した。日本軍のある部隊によって三十五万の中国
市民が虐殺され、三万五千の中国女性がおかされたのである。
 それ以来二年たったのだが、一、二日南京の焼けただれた跡や中国の人たちの貧乏極まる姿を
見て、私は心ひしがれ、どうしていいか分からなくなったのである。

 ちょうどその時、重慶から蒋介石総統の夫人宋美齢女史の言葉が放送された。「日本人は憎い、
日本軍の暴虐はどうしても許せない」というのである。ほんとうにそうだと私は更に心をしめつ
けられた。ところが驚いたことに、続けて「しかし、私はどうしても神様に日本を滅ぼして日本人を
皆殺しにして下さいとは祈れない!」という言葉が伝わって来た。驚いて信じられぬと思っていると、
「なぜなら日本には、今日も日本と中国との中国人とのために熱涙を流して祈っている、
ドクター・カガワがいるからである」というのである。
 
その時私は宋美齢女史の言葉に励まされて、元気を出してやっと立ち上がることができた。そ
れから大卒後の一九四五(昭20)年、私どもはとうとう完全に敗北して、死の恐怖に包まれてい
た。すると今度は蒋介石総統の言葉が放送された。「仇に報ゆるに仇をもってせず、中国全土の
日本人を一人残らず安全に本国へ送り返せ。これに背く者は厳罰に処する」という、それこそ驚くべき
布告であった。

 しかしそれは夢ではなく、完全に敗北した私どもは、大部分が安全に故国に帰ることができた
のである。実に賀川先生の存在が、何百万もの日本人を救う貴い働きをなし遂げたのである。今
や賀川先生召天後二十三年を経てしまったが、先生の言葉「愛の祈りは世界を動かす」が、一つ
の観念や理論ではなく、世界史的な現実において実証された生ける真理であることに心を打たれ
るのである。 【…】  (黒田四郎著『私の賀川豊彦研究』pp10-11 キリスト新聞社 1984 )
 

以下に紹介するのは、田中芳三氏が編集し出版した小冊子、『一杯の水―神に酔える長尾巻夫妻物語―賀川豊彦を巡る人々』に収録された、賀川豊彦晩年の講演録である。

この最後のところに、賀川自身が、世話になったのはアメリカ人宣教師だが、学んだのは長尾巻であると語り、しかも神戸のスラムへ身を投じたのは、長尾巻に学んだからであると書かれている。

もちろん、メソジストの創設者ジョン・ウエスレーや、『南アフリカ伝道探検旅行日誌』の伝道者・デビッド・リビングストンの影響を黒田四郎氏は伝えているが、賀川自身の口から、スラム入りは「長尾巻」から学んだ(1番感化を受けたとまで!)と語っていることは、賀川の原点を研究する際には大変重要なことであろう。

黒田四郎氏によれば、賀川は、伝道の精神をリビングストンから、そして伝道の方法をウェスレーから学んでいたと述べている(『私の賀川豊彦研究』キリスト新聞社1984年)。小生は、このあたりのことには興味が尽きないのだが、まずはご覧あれ。


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 『長 尾 巻 に 学 ぶ』                  賀 川  豊 彦
 
 『私はかつてオーストリヤのウィーンにあるベートーベンの家を訪ねたことがある。彼
は二階座敷を間借りしていた。偉人は必ずしも金殿玉楼から生れるものではない。間借りからも偉大なる芸術が生れる。
 私はまた貧乏伝道者、長尾巻に真に偉大なる優れた芸術を見出すものである。
彼はこの世的には何の富も、地位階級も、ない極めて貧しいただの一牧師にすぎなかっ
た。日本の牧師はみな貧乏だが、これほど貧乏な牧師を私は見たことがない。彼は貧乏を
享楽しているかのようであった。私は明治四十年、綬の伝道を助ける目的で豊橋に行った
ことから彼を知るようになり、肺病にかかっていた私は、一ケ年間、彼の家のぼろ二階に
寝かせてもらって親身も及ばぬ世話になった。
 彼の父は金沢藩の奉行で、中々の傑物であった。彼が感化を受けたのは宣教肺ウインよ
りも、むしろこの父であったと思う。
かのブラザーローレンスは田舎の修道院で掃除番をしていたが、長尾巻は正に日本のブ
ラザーローレンスである。日本人は何十年たっても、何百年たっても、長尾巻に多くを教
えられるに相違ない。
 長尾巻は、貧乏、迫害、キリスト道による苦難を、信仰によって武者修業をしたキリス
トの武士であった。
 その根気強い点でも、私は彼ほどの者を知らない。私は関東震災後、彼にすすめて名古屋でキリスト教各派連合の早天祈り会を開いてもらったことがあるが、その折り会を十年
間守り続けたのは彼只一人であった。八十才を越えても冬期火気を一さい用いなかった。
彼は還暦を迎えると、その記念にあごひげをのばした。それはまことに房々とした美し
いもので、さながらサンタクロースを思わせるものがあった。ところが、そのひげが毎日
二、三本づつ抜ける。彼はこんなものでも何かの役にたつであろう、と抜けたひげを大切
に蓄え始めた。そして十年の星霜を経て、彼が七十の年を迎えた時、蓄えたひげを数えて
見ると、八千六百三十三本、という夥しい数になっていた。彼はこのひげの用途を考えた
末、記念にひげ筆を造ることにきめた。
 筆屋さんも、狸や兎の毛の筆は造ったが、人間のひげの筆はいまだかって一度も造った
ことがないので、その毛を整理するだけでも余程骨が折れた、ということである。彼は、
これを“気根筆″と名づけ、子孫に残していられる。
 彼はまた、チョコレートやたばこを包んだ錫の箔を人々が捨ててしまうのを見て、「勿
体ない、これでも何かの役にたつであろう!」と言って集めていた。そしてそれで壺を造
り、「私が死んだら、この錫箔の壷に、私の骨を納めて下きい。」と言っていた。
 意の胴面には、
 “菓子包み、煙草つつんだわれわれは 愛する君の骨を包まん〟”
 との一首が浮彫されていた。童心そのままである。
 借仰生活四十九年の開聖日を数えると二千五百回、この二千五百回の聖日をただの一日
として守らなかった日はなかった。
 貧乏のどん底にいながら愚痴、不平を一度として彼の口から聞いたこともなければ、ま
た彼の怒った顔を見たこともない。
 何時も乞食を親切に泊めるので、彼の家には、蚤と蚤がわき、これをとったのを瓶詰め
にしてためてあった。
 私が今までに一番感化を受けた人物、それは長尾巻である。世話になったのと、学んだ
のとは違う。私が世話になったのは、アメリカの宜教師だが、学んだのは、長尾巻からで
ある。日本にこのような伝道者が出たことを神に感謝する。こんな人をこそ聖人と言う
のだ。〝神に酔える隠れた聖徒″ これは長尾巻に献げらるべき最も過当な称号であると
思う。
 私が神戸新川のスラム街に身を投じて、貧民伝道を思いたったのは、長尾巻に学んだか
らである。』
 
(一九五九、一、四、イエスの友冬期聖修会における講演大要)
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プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
博物館学芸員
趣味:
資料整理、バイク
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