賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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以下は、戦後に賀川豊彦自身が回顧して書いた新聞記事である。大変、重要な内容が含まれていると思うので、ご研究者には、是非今後詳細にご検証頂きたい。表記は当時のものを尊重しているが、一部現代かなに直している。また、読売新聞の著作権に関する部署へは、連絡済みである。
尚、これらに関する一連の資料的な紹介は、次号の『賀川豊彦研究』(本所賀川記念館刊)に拙稿の資料紹介にて掲載予定である。
それでは、以下、ご精読あれ。
『夢の対米交渉 半生の記』 賀川豊彦
尚、これらに関する一連の資料的な紹介は、次号の『賀川豊彦研究』(本所賀川記念館刊)に拙稿の資料紹介にて掲載予定である。
それでは、以下、ご精読あれ。
『夢の対米交渉 半生の記』 賀川豊彦
「貧民くつ生活十四年八カ月、ゴロツキに脅迫せられ前歯をおられ、ピストルでおどされ、殺人犯の前科者に追い回された経験から労働運動、農民運動、協同組合の組織運動に移ったので、今でも、唯物的な暴力運動で社会がよくなろうとは全然考えていない。そういう人々は、ドン底生活を知らない人々の言うことであって、社会構成の要因を知らぬ人が勝手な理由をつけているのだと私は痛感している。
貧民くつで苦しんだから、労働運動や、平和運動で度々監房や、刑務所にぶち込まれても、かえってそこが貧民くつより靜かでもあり清潔でもあったために、休憩ができてすこしもつらくはなかった。
だが、田中義一内閣ができ、荒木陸相が強力な侵略主義を取り出した時に、私は全く困ったことになったと思った。1936年、私は万国日曜学校大会の講師に頼まれてスエーデンに行った。日本に帰ってくると、近衞首相が、またスエーデンに日本の立場を弁解に行ってくれと言ってきた。永田町の官邸に私は首相と会った『支那へ戦乱を拡大させないと言う事を約束してくださるなら、スエーデンに行きますが、その保証がないと行ってもダメですから』と答えた。すると、近衞首相から『私としては、何とも言えないですよ』という返事を受けた。『それでは、スエーデンにお使いしても、むだですから、どうかごかんべんを願います』と言い残して帰ってきた。
私は1936年の春から夏にかけて全米の恐慌期に、アメリカの副大統領ワレース氏の秘密の依頼を受けて、キリスト精神に基づく協同組合の組織運動にアメリカ47州(フロリダ州を除く)を駆けめぐった。表面は宗教講演であったが、当時農林大臣をしていたワレース氏が協同組合でなければ、恐慌打破はできないからというので、日曜日の午前9時、新聞記者のいない事をよき幸いとしてワシントンの農林省で、ワレース氏に会い、彼の希望を飲み込んで、全米にみなぎる「反協」運動を無視して、活動した。「二丁ピストルのノリス」という南バプチスト教会牧師が私の行くところどころでも飛行機でやって来た。そして「カガワの暴露」という下に、大会場をかりて、私の反対演説をやって回った。それがかえって、群集心理を興じさせ私の演説会にいつも七千人、一万人と集まった。貧民くつのゴロツキにいじめられていると思えば、平気なものであった。約六カ月アメリカを巡礼して、アメリカ人の美しい方面と、悪い方面がよくわかった。ノーベル受賞者シンクレア・ルイス氏の如く、小説「協同組合」を書いて、私の実名をあげて、私に感謝してくれたのもこの時であった。それで、アメリカの都市消費組合運動はうんと前進したことは、私の半生のなかで最も感謝する一つの出来ごとであった。これらの影響でカリフォルニア州の労働組合同盟が「排日法」の撤回を決議してくれたが、満州事変のために、これも全くおじゃんになってしまった。
1939年12月、私はインドに行く途中、上海のメソジスト教会で「支那に赦罪する」という演説をした。それがたたって私は1940年8月26日東京渋谷憲兵隊の独房に監禁されることになった。18日間そこに死を覚悟して、静かにめい想生活を送っていた。遂に東京地方裁判所を経て、巣鴨刑務所未決監に回された。すると四日目の晩午後7時半突然私は釈放された。変なことがあるものだと、思っていると、外務大臣松岡洋右氏から電話がかかってきた。『賀川君、でてきたか?よかったね。ぼくは憲兵司令官に依頼して君を出してもらったんだよ』ということであった。乃木大将の友人で会った陸軍少将日是信亮氏は、『松岡は君に依頼して平和工作にアメリカへ行ってもらいたいのだよ』といっていた。
その話が事実になったのは翌年の3月であった。わたしは近衛内閣の外務省に頼まれてアメリカへ「キリスト教の平和使節」の一団と一緒に出かけた。5月27日シカゴ・トリビューンは大統領ルーズヴェルト氏が「日米戦争はあくまでも避ける」と大きなトップ記事として発表した。それで、私は、目的を達したと喜んでいた。すると日本の陸軍が仏領インドシナに駐留した新聞記事が出た。米政府は日本の在米資金三十億ドルを全部差押さえてしまった。1941年8月4日ロサンゼルスの四百の新教教会が「カガワ・デー」を守り、日米の平和のために祈ることになっていた。しかし、8月3日最後の日本船遠州丸がサンフランシスコを出ることになり、私がそれに乗込まなければ日本に帰る希望がなかった。それで、私は「カガワ・デー」の講演を拒絶し、8月16日日本に帰った。
昭和十六年九月五日晩、私は近衛首相と西荻窪の有馬頼寧伯の邸宅で約三時間日米平和工作につき懇談した。近衛公はあくまで平和論を私にとき、陸軍の戦争主義を押さえて、是非大統領ルーズベルトと会談し、平和に導きたいから、電報を打ってくれ、と要求せられた。で、私は外務省の省内電信局を利用して五千円の金を費やして大統領その他キリスト教の中心人物に電報を打った。インドのガンジー翁の知友スタンレー・ジョーンズから「もうダメだ。ここ一週間が危ない。ワシントンで徹夜の祈とう会を開くから東京でも開け」という電報がきたのが、12月1日だと記憶する。私たちは連日連夜不眠の祈とう会をひらいた。一週間つづけて後ロウソクの火をふき消したとき真珠湾攻撃の号外がはいった。そして、日本はついに敗れ、近衛公は自殺してしまった。今思うと全く夢である。(宗教家)」
<読売新聞 昭和28年11月9日 掲載>
<読売新聞 昭和28年11月9日 掲載>
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