賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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左の写真は、裏書によれば、1931(昭和6)年に、”カガワス・トリート”で撮影されたものである。この年、カナダのトロントで開催された、YMCA世界大会へ向かった際、合わせて全米各地で伝道・講演を行ってきた。その時撮影された一葉の写真である。前回紹介したのは1935(昭和10)年の訪米であったが、こちらは、その4年前の訪米時の写真である。7/10-11/12までの期間、賀川は盟友、小川清澄、村島帰之と共に横浜より出帆。シカゴ、ニューヨークほか、各地で盛大な会が開催される。その後、ロスアンゼルスに滞在した9月24日に、ここ”カガワ・ストリート”(被写体の足元を注目!)を訪れたことが記されている。以下は、随行した村島が雲の柱誌に寄稿した「アメリカ巡礼(初期は「アメリカ紀行」だが改題した)」にある記録である。
『【…】カガワストリート 今度は海岸沿いのハイウェーを走る。サンマ―ランド付近では石油のやぐらが海中に沢山に立っていた。海の中から石油が沸くのだ。ロサンゼルスに這入りがけに、カガワストリートというのがあるというので、そこへ車をやる。小高い丘の東西に通ずる四間道路だ。町名標には明らかにKAGWAの字が読める。誰がつけたのか、賀川先生も町の名にされるようになった。町名標の下に賀川先生を立たせて記念の映画をとる。私たちも一緒に。【…】 』(雲の柱昭和7年7月号p.78)
(この際撮影された一枚がその時の写真ではないかと推測している。裏書では、クエスチョンマークがあるので、おそらくということであるが。)
村島の旅行記では残念ながら、一緒に写っている人物がだれなのかが書かれていない。前後を読んでも他の米国人随行者がいることも触れてなく、特定が困難である。(たまたま通ったご近所の方だろうか…それにして背広だし…)
この米国訪問記では、賀川の講演会が相当妨害されていることが随所に書かれている。前回は、米国保守派の攻撃があったようだが、この時のロスでは、日系人共産主義者の某グループ(米国で!?)によって、数回講演でヤジによる妨害を受けた記述が見られる。講演会場では、そして、”カガワ・ストリート”訪問日には、それらの一派が会場で革命歌を謳いだし、司会者は対抗するため讃美歌の合唱を命じたとある。 『…讃美歌と革命家の二重唱…』(村島 同 p.79)。一体どんな空気だったのだろうか?もちろんむつまじく歌っていたのであれば天国のような歌合戦の風景だが、残念ながらきっとそうではないだろう。
その後、警官が会堂に這入り、首謀者と思しき人物が拉致されていったとある。そしてようやく賀川の講演(説教)が始まったそうである。はたして、一時間後には大歓声の拍手とともに終了した。
帰り際には、先の某グループ運動員が、どうやら待ち伏せしているとの情報から、スタッフは別口より賀川を車に押し込み、スタートするも、尾行する車が有り、カーチェイスへ! まさに映画の街ならではの派手な活劇が繰り広げられ、やがて追手を振り切り、つぎの旅程へと無事向かう…。
なんとも、騒がしく忙しい旅行記がつづられている、”カガワ・ストリート”訪問の一日であったようだ。
『【…】カガワストリート 今度は海岸沿いのハイウェーを走る。サンマ―ランド付近では石油のやぐらが海中に沢山に立っていた。海の中から石油が沸くのだ。ロサンゼルスに這入りがけに、カガワストリートというのがあるというので、そこへ車をやる。小高い丘の東西に通ずる四間道路だ。町名標には明らかにKAGWAの字が読める。誰がつけたのか、賀川先生も町の名にされるようになった。町名標の下に賀川先生を立たせて記念の映画をとる。私たちも一緒に。【…】 』(雲の柱昭和7年7月号p.78)
(この際撮影された一枚がその時の写真ではないかと推測している。裏書では、クエスチョンマークがあるので、おそらくということであるが。)
村島の旅行記では残念ながら、一緒に写っている人物がだれなのかが書かれていない。前後を読んでも他の米国人随行者がいることも触れてなく、特定が困難である。(たまたま通ったご近所の方だろうか…それにして背広だし…)
この米国訪問記では、賀川の講演会が相当妨害されていることが随所に書かれている。前回は、米国保守派の攻撃があったようだが、この時のロスでは、日系人共産主義者の某グループ(米国で!?)によって、数回講演でヤジによる妨害を受けた記述が見られる。講演会場では、そして、”カガワ・ストリート”訪問日には、それらの一派が会場で革命歌を謳いだし、司会者は対抗するため讃美歌の合唱を命じたとある。 『…讃美歌と革命家の二重唱…』(村島 同 p.79)。一体どんな空気だったのだろうか?もちろんむつまじく歌っていたのであれば天国のような歌合戦の風景だが、残念ながらきっとそうではないだろう。
その後、警官が会堂に這入り、首謀者と思しき人物が拉致されていったとある。そしてようやく賀川の講演(説教)が始まったそうである。はたして、一時間後には大歓声の拍手とともに終了した。
帰り際には、先の某グループ運動員が、どうやら待ち伏せしているとの情報から、スタッフは別口より賀川を車に押し込み、スタートするも、尾行する車が有り、カーチェイスへ! まさに映画の街ならではの派手な活劇が繰り広げられ、やがて追手を振り切り、つぎの旅程へと無事向かう…。
なんとも、騒がしく忙しい旅行記がつづられている、”カガワ・ストリート”訪問の一日であったようだ。
じつは、この時期(1931・昭和6・12月号)に、ある一片の気になる詩を、雲の柱に掲載しているのである(『雲の柱第十巻十二号』p11 )。時期は、世界恐慌の余波で世界的な不景気のこの時期、賀川は、アメリカ雑感、神の懐へー南加の同胞への言葉―、など旅行中に刊行された同誌に、アメリカへの思いをいっぱい詰まらせている。しかし、そのようないわばアメリカ特集の同誌になぜか、下記の歌が掲載されたのである。
悩みの子
トヨヒコ
また悩みの子に
私はなつた
日本の罪を負ひ
支那に詫び
世界に詫び
小さき霊を
ちぢに
砕く 悩みの子と
私はなった
何故か?
何故か
こぼるるよ 私の涙
民は食なくて
飢えつつあるに
戦をかまへて
民を苦しめる
心なき軍閥の態度
ああ
うしろの山に
柴かりつつ
世界の平和を
祈りつつある
やさしき魂のあるのを
彼等軍閥は知るか 否か?
※同年は、満州事変の起きた年であるが、まるで賀川の内面には、その後の大きな惨事に広がるのを予言するかのような、激しい痛みがあふれているではないだろうか。すでにこの時期に、賀川は日本の責任を「悩み」、謝罪の念を中国そして世界に向けて抱いていたのである。当時の時代の人間のうち、いったい何人が同じようなことを発言できたのだろうか。賀川はたんなる情報の分析以上に、先駆的な直観力をもっていたのではないだろうか。
悩みの子
トヨヒコ
また悩みの子に
私はなつた
日本の罪を負ひ
支那に詫び
世界に詫び
小さき霊を
ちぢに
砕く 悩みの子と
私はなった
何故か?
何故か
こぼるるよ 私の涙
民は食なくて
飢えつつあるに
戦をかまへて
民を苦しめる
心なき軍閥の態度
ああ
うしろの山に
柴かりつつ
世界の平和を
祈りつつある
やさしき魂のあるのを
彼等軍閥は知るか 否か?
※同年は、満州事変の起きた年であるが、まるで賀川の内面には、その後の大きな惨事に広がるのを予言するかのような、激しい痛みがあふれているではないだろうか。すでにこの時期に、賀川は日本の責任を「悩み」、謝罪の念を中国そして世界に向けて抱いていたのである。当時の時代の人間のうち、いったい何人が同じようなことを発言できたのだろうか。賀川はたんなる情報の分析以上に、先駆的な直観力をもっていたのではないだろうか。
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