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(関東大震災の時の被災地の状況)
彼の救援活動は、一時期に救出、救援などの活動をした後、その地に住む人々衣食住の必要を応急手当を行い、さらに人々が自らの互助の力で、立ち上がるように援助をするのが特徴でした。助力を基本としているのです。
その賀川が言っている言葉です。
「…一度に幾十万人の貧民を作った今日、隣人としての私たちは防貧に救貧にお助けしなければならないのである。殊に、お金でお助けすることができるものと、金でお助けのできないものとがあるから、私たちのように金のないものは、善き隣人としてお近づきになるより仕方がない。私の第一にしたい仕事は、セツルメントである。この冬を通じて罹災者の困苦を自ら体験し、バラックの苦悩を自らも一緒に味わい、それを科学的に調査して世間に訴えることである。つまり私は「眼」になりたいということであった。
統計報告には「心」が書いてない。救貧運動の根本は心である。物質の欠乏により起こる心理反応である。悩みである。もだえである。そうした罹災者の悲しみを統計で現すことはできない。それはどうしてもセッツラーとして、テントや、バラックに住んでみなければわからない。」
(「地球を墳墓として」全集21巻)
とありましすように、これらの心情がかれの内面に流れていました。そして本所地域での目覚しい活躍へとつながるのであります。具体的には、彼の仲間たちの協力を得て、「本所基督教産業青年会」という団体の組織化が図られ、そこからさらに拡大発展して、江東消費組合、中ノ郷質庫信用組合、光の園保育学校ほか、へと結実してゆきました。その多くは、今日まで活動を持続しています。
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