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被災地で行われた天幕保育の様子
(後に「光の園保育学校」へと発展)
9/16,9/26の二回にわたって、賀川は自分のはじめた神戸の社会事業組織「イエス団」の若者に救援物資を東京に運ばせます。
被災直後の東京で賀川がすぐさま救援活動をしなかったのには理由がありました。それは、たずねたYMCAでの石田との打ち合わせで、東京のキリスト教関係者には、救援金が一文もないことを知らされていたからです。
そこで賀川は、神戸へと引き返して、そして義捐金を集めるために、40回にもおよぶ講演会を開き、入場料と寄付金を集めて、東京へ送金します。そのために彼は関西のみならず、四国九州まで駆け巡り、合計4-5千万を集めます。そして10月5日に再び神戸に戻り、7日には東京へと向かいます。あわただしい往復をしながら、少しづつ必要を満たしていったのです。
10月8日には、賀川は内務省と東京市を訪れますが、そこで冬に向かって衣類、布団の不足という情報を知らされます。そして賀川は、救済事業の現状を調査しようと思い立ちます。そして調べた結果、公的機関では布団の準備が十分用意されていないということを実地調査から確認します。
そこから防寒運動をしたいと願った賀川は、10月14日に再び神戸へ引き返し、16日には船で出発し17日には布団、下駄、窮乏する品を横浜に水揚げします。そしてこのときに、婦人矯風会外人部が運営していた、「興望館」跡地にバラックを建てて、そこを拠点にして事業を開始するのであります。これが現在の墨田区本所になります。
賀川の書いた『地球を墳墓として』(大正13年6月アテネ書院・全集21巻)のなかには、「私が本所でしたい仕事は、要するに神戸の仕事をそのままここへ持ってくることであった」(『地球を墳墓として』-焦土を彩色せんとして-)と書かれているように、神戸での防貧事業を、東京でも行うことを彼は目的にしていました。 神戸での数々の経験を生かした救援事業をかれは目指していたのです…
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