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いつも筆をとるごとに、自分は文字をつかって何かを書いていいのだろうか、といった迷いというか、ためらいというかを覚えつつも、つい歯止めなく言葉を綴りおえてしまう。誰になにか言われるわけではないが、なんとも罪悪感のような痛恨というか、できればなにも書かないほうがいいのではないかと、どこかの作家のような錯覚を覚えつついるが、またつい書いてしまう。小生意気に言えば、性懲りもない人間の典型なのかもしれない…。などと、津々浦々に記憶と記録の知の海を巡りつつ、それらの資料の山に埋もれてることに、安堵をおぼえているこの頃である。
さて、今年の秋、当館では賀川没後50周年企画として、講演会・シンポジュウムを開催予定である。詳細なことは後日正式に発表の予定であるが、すでに出せる情報だけ、このブログをご覧のかたへの特典としたい。
10月23日(土)、24日(日)の両日にかけて、世田谷文学館で「賀川豊彦の文学(仮)」として、23日に記念講演会、24日にシンポジウムを企画している。これは、昨年9月に毎日新聞がノーベル財団のHPにあるデータベースから、戦後すぐに文学賞候補として賀川豊彦の名前が、二年も続けてノミネートされていた事実をスクープしてくれたことが、動機の始まりにある。
大正9年に発行された『死線を越えて』は、一年間で100万部を売り切ったという、伝説的な大衆文学作品である。もちろん、当時の文壇からは相手にされなかったとか、そんなことはなく、大衆向けの目的小説といえども、ちゃんとした文学だとか、論争があったのは確かなようである。
今や「小説」はほぼ大衆化、庶民化されており、携帯でもネットでも若者をひきつけた小説がもてはやされ、社会現象を引き起こした起こさないと、ときどき話題に上る。多くは経済的な意味が大きいような印象がぬぐえないのだが、とにかく、これを「文学」としてみているのかどうか、小生にはよくわかならい。賀川の作品も当時としては、文学史上の画期的な出来事だったにちがいないだろうが、同時代の受け止めは現代の携帯小説と同じで、よくわからないほど意見が割れていたであろう。
しかしながら、21世紀の今日あらためて「賀川の文学」を正面から取り上げて、専門家の方から読み解いて頂き、お話しして頂く予定である。どうぞ御関心のある方は、ご予定に入れておいて頂ければ幸いである。
雨の金曜日、例年にない寒い四月である。
本日、4月23日は賀川豊彦が召天されて、50周年目の日である。1960年の今日、賀川は71才9ケ月の生涯を閉じた。彼の駆け抜けた人生を静かに思い巡らせ、一日を過ごしたい。
昨年夏、映画会を催された、賀川豊彦ゆかりの地蒲郡市の青年賀川保養の暗居址に、なんと記念碑が建てられるとのことが、本日地元の方から知らされた。市からの許可が下り、あとは着工を進める段階に入ったようであるとのこと。揮毫はご令孫である賀川督明氏とのこと。
雑芸員も昨年7月訪ねた、風光明美なとても美しい海辺の町であったが、碑文が建てられるとまた一層思いが寄せられる。きっと訪ねる人々も増え、地元の方にも意識が広がるであろう。近くにある海辺の文学館では、新しく賀川パネルを展示するとのこと。これもまた感謝に堪えない。
他にも、三河地方での賀川豊彦を記念して、土地にちなんだ作品(『銀河系統』など)の再販も検討中とのことである。
この際、『私たちの街の賀川豊彦(仮)』などというテーマで、それぞれのゆかりの地ならではの賀川コンテンツを、同時多発的に全国で社会発信して頂けると、相乗効果でかなり盛り上がりができるのではないだろうか。
『暇の蒲郡』など、日記体の資料が当館には収蔵されており、『初期資料集』に収められてこそはいるが、専門家による読み下し文がついていないので、いまだ活用し難いといえる。つまり基礎研究である、資料の調査・研究がまだ終わってないのである。当然、歴史化してゆくための資料解釈すら簡単には入れないのが現状である。
ぜひこれを機会に、当時の青年賀川の気持ちが綴られた日記などの活字化をも推進しててゆければと願っている。(すでに提案はしているが、なかなか実現は難しい…どなたかご一緒にプロジェクト化にご協力いただければありがたいのですが…)
皆様も今夏ぜひ同地をお訪ね頂き、碑文をご覧なられては?!
関連記事 → http://kagawa100.blog.shinobi.jp/Entry/50/
基調講演は、『世界が100人の村だったら』の池田香代子さんである!!
URL→ http://www.acist.jp/
池田香代子さん |
○パネルディスカッション
込んでいるような空いているようなよく分からず、雨よけに着たウインドブレーカーの前を空け、店員に尋ねる。下にはちゃんとネクタイぐらいはしてるからその辺りのジョギングのおっさんとは違うんだぞ、とばかりに、きちんとした身なりだと暗に示しつつも、センスのない恰好をさらけ出しながら席につく。出されたおしぼりを造作もなく顔にあて、首までは拭かないことに、残り少ない若さの担保を覚えながらケーキセットを注文した。
普段資料館での業務は、エキシビジョンの管理のほか、アーカイブズの管理や対外的な雑務をこなしている。しかし、最近は学芸業務として重要視されている一つに、パブリックリレーション活動がある。簡単に言えば「PR」活動のことだが、博物館のもつコンテンツを外部へ発信するための教育プログラムを組む「エデユケーター」や、直接コミュニケーション活動を行う一つとしての「レクチャラー」という仕事も、学芸員の職務範疇に入っている。
もちろん、展示場を案内するガイド(鉄道博物館では、「インタープリター」と称している。)も日常業務の一つだが、外部まで出かけて行ってのコンテンツ発信(講演会)は、もはや日常業務の一つとさせて頂いている。つまり日本語でこそ、博物館専門職員は「学芸員」という一つの言葉ですまされるが、実は多様な職務を総称して学芸員と呼んでいるのだから、本質的には「雑芸員」なのが実情ではないだろうか…などと、ほのかなコーヒーの香りに誘われ、自由な想念が脳裏をかすめる。
窓の外の通りを行き交う人々を遠目で眺めているうち、時間が迫ったことに気付き、席を立ち会計を済ませエレベータへ搭乗。会場に着くと、すでに来場者が受け付けにあふれている。こんな大勢の人を前に話するのか…武者ぶるいするでもないが、緊張を隠しつつ控室に逃げ込む。
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