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昨年12月25日、世はクリスマス当日で、昨晩までの喧騒がうそのように静まりを見せ始めていた。その日、故相馬雪香さんの記念式「相馬雪香さんを追悼し感謝する会」が、憲政記念館で開催された。前日には別件で、参議院会館にきていたが、二日続けての永田町通いである。当日は、館長とともに、世界連邦事務局の方も途中でご一緒して会場入りした。ほぼ一月前にも憲政記念館を訪れているが、それは尾崎行雄の生誕記念の式典であった。そのことはすでにブログで報告してある。以前は触れてなかったが、尾崎は慶応義塾の出身であるが、福沢諭吉に請われて慶応義塾で倫理学の教鞭をとっていた、A.C.ショウが伝道していた霊南坂教会で、1875年のクリスマスに洗礼を受けている。その後東京聖アンデレ教会に教籍をおいていた。後に尾崎は新潟新聞主筆の時代に、英国のThe Salvation Armyの存在を知り、「救世軍」という邦訳で紹介した。名づけ親である。賀川と救世軍の山室軍平との親交はよく知られている。尾崎はやがて政界入りし、1903-0912まで東京市長を務めるが、そのときの助役がキリスト者の田川大吉郎である。田川大吉郎は、賀川豊彦が創設した、中ノ郷信用組合の初代組合長であった(1928年)。尾崎は、その後憲政擁護の運動を進めて、シベリヤ出兵反対や枢軸国同盟反対、大政翼賛体制批判などをつらぬき、気骨ある政治家として「憲政の父」と称され今に至る。戦後は賀川豊彦らと共に世界連邦運動を推進し、初代総裁をつとめた。賀川は副総裁であった。(参照:『キリスト教歴史大辞典』 教文館)
<写真:「相馬雪香さんを追悼し感謝する会」での配布物より>
その尾崎行雄の三女が相馬雪香さんであるが、残念ながら11月8日にご召天された。当館は記念式のご案内をうけ、馳せ参じたのであるが、こういう場に不慣れな雑芸員は、前回同様またも手短に受付をすませて、足早に着座し開会を待つことにした。
定刻になり、相馬さんを追悼し感謝する会が始まった。祭壇には、皇族の人たちからの供花が並び、三笠宮家の寛仁親王が弔辞を読み上げられた。次に麻生太郎総理大臣から弔辞が読み上げられた。弔辞文が書かれた大きな白い紙が印象的だった。河野洋平氏、江田五月氏の両院議長のあいさつがあり、前回の尾崎行雄記念式と同じく、日野原重明先生からの弔辞、森山真弓尾崎財団理事長からの弔辞と続いた。柳瀬房子難民を助ける会前理事長からの弔辞のち、ご遺族代表の相馬和胤様よりのあいさつをもって第一部は閉じた。相馬雪香さんと麻生総理とは親戚であり、弔辞の中で幼少のころから知っていたことが総理自身より語られた。また麻生総理の妹の信子さんが、寛仁親王の配偶者となっていることから、親戚筋の方たちが多いことがよくわかった。会中、特に印象に残ったのは、日野原先生の弔辞であった。相馬さんが普段語っていた「赦しなくして、平和なし」という言葉のご紹介は、私の脳裏に響き続けた。
その後、第二部では会場を移して、サロンで行われた。混雑する通路を、小池百合子氏の直後にならんで移動し会場入りする。見渡すとデビ夫人や猪口邦子氏、その他女性著名人の多さに驚いた。司会を加藤タキさんが行い、挨拶のスピーチを元銀行協会会長の橋本徹氏が行った。橋本徹氏は、日野原重明先生と同じく、賀川献身記念事業・東京プロジェクトにご参加を頂いており、実行委員のお一人である。スピーチ終了後にご挨拶に伺い、二月の賀川献身記念事業・キックオフパーティへの案内などをさせて頂いた。しばらくのち、アナウンスとともに、皇后陛下美智子妃が数名の方とともに入場された。実に相馬さんの生前のご活躍が偲ばれる茶話会であった。帰り際、歓談していた人が、「さっき見たことあるので知り合いと思って声掛けたら、NHKのアナウンサーの人でした」 と、恥ずかしそうに野村正育氏のことを語った笑顔が印象的だった…
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