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何年かまえに、とりたてて騒ぐほどのことではないが、内輪で話題になったことがあった。それは賀川の著名な詩集『涙の二等分』の中で、お石の世話をした賀川の心境を謳った節があまりに感動的で、読む者の涙を誘ってやまない。また映画でも、当時のあまりの過酷な貧困ゆえの非人間的行為の犠牲者の代表として描かれていたお石、これもまた正視に堪えないほど痛ましく、気がつけば、目じりからまつ毛を焦がすほどの熱いしずくがこぼれおちたものである… しかし…しかし、あのお石は、実は生きていた!ということに皆驚いたのだった!
これは賀川自身もどこかで書いており(探し出せない…)、象徴的な意味でお石を死なせた設定であったくだりがあったような記述を覚えているが、正確に思い出せない。
今たしかめられる記述では、村島帰之の記述だけである。
『【…】賀川は泣きながらお石の世話をした。その時の心境が『涙の二等分』につぎのごとくうたわれている。
”お石がないて目が覚めて、~(「涙の二等分」からの引用文、ここでは省略)
お石は死ぬべきところを助かって今も関西にいる。もう四十歳ぐらいになっているだろう。こうした経験によって、彼は人間の堕落を嘆かずにはいられなかった【…】」
『吾が闘病』今吹出版社版pp.168-169 初版発行1940年
なんとここに村島によって、お石があの場面で実は、死んでいなかったということがはっきり書かれているではないか!!
一方、『黎明を呼び醒ませ』(全集22巻)内、のエッセイ、「『死線を越えて』を書いた動機」という中で、賀川はこんなこんなことも書いている。
「【…】何時かも有島武郎氏が云っていたやうに、小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるのださうです。私も有島君の流儀で、このあたり許して頂きましょう。【…】」(同掲p.202)
この直前で賀川は、「死線を越えて」のモデルについて、言えない多くの事情があると言っている。なるほど、なんとも意味深な言葉であると、お石の件を思いながらパラレルに考えてしまう…
さて私たちはここで、「ひどい、流した涙を返せ!」とか、「感動した心をどうしてくれるんだ!」とか、言うべきなのだろうか?どう受け止めればよいのだろうか?文学とか事実とか真実いうことを、もう一度考えねばならないのではあるまいか。
もちろん様々なご意見が出てくるであろうが、そんな賀川の文学をご一緒に再考するイベントが秋に開催される。前回お伝えしたが、まずは決まった内容だけ、お知らせしませう。乞うご期待!!
<賀川豊彦没後50周年記念 講演会・シンポジウム>
テーマ 「賀川豊彦の文学-その作品的価値を問う-」(仮)
※9月くらいから、受付する予定です。近づきましたら、HPをご確認ください。
以上(雑)
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