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せっかく話題に出たならと、久しぶりに明治学院で1968年に再販された、『賀川豊彦協同組合論集』をひっくり返してみる。するとどこも、感銘の連続である。
たとえば、
社会単位運動の章では、「…コーエンは言った『神なくして真の社会主義の完成は不可能だ』…」
ロッジでールの章では、「…かくてイギリスにおける消費組合運動は…自己よりも他人の幸福、大衆の福祉のためという純真愛隣の精神をものがおれば…世界を動かし反省せしめ善導することができる…」
40年以上前の本なのに、どの言葉も新鮮に思えてならない。どうしてなのだろう…
すこし離れて撮影したのが次の写真である。病院へ向かう人々を、まるで温かく迎えるかのように、通路の側を向いている。夜はこわいが、歩いているとまるで、横から声掛けられているかのようだ…。
中には『誰この人?』と関心を向けてくれる方がいればうれしいのだが。
このように滑り台のある、子どもさんの遊ぶ一般的な公園である。
この滑り台の右奥に目を細めると、賀川胸像が見える。背景のトタンに色が同化してしまって見にくいが。
裏面には、中野総合病院の前身である東京医療利用購買組合設立における、苦節の歴史が刻まれている。柵が囲んでいて、像の周辺には入りにくくなっており、ちょっと頑張らなければ見られない。撮影したのは夏だったので、虫が多かった。
背中には、1967と刻まれている。
お近くをお通りの際は、ぜひご覧になって頂きたい。
いまはまだ構想中であるが、東京でも賀川豊彦ゆかりの地に関するガイド書や、マップなどを作って、休日に散歩がてら学べるようにしたい。来年は関西からの団体様がツアーで、当館をご見学予定である。ゆかりの地巡りのショート・トリップのコースも考えてみたい。
ex)
1. 都内コース:上北沢(松沢資料館)―中野(中野総合病院)―本所(本所賀川記念館)―渋谷(日本生協連ビル)―白銀(明治学院) ―レストラン
2. 遠隔および近郊地コース:前泊(東山荘)―御殿場(高根学園)―茅ヶ崎(平和学園)―町田(桜美林大)―横浜(共立女子神学校・関東大震災時上陸地)―レストラン
以上
上の写真は、友愛会のバッジである。資料館の常設展に展示してある。ご存じのように、賀川豊彦は、米国より帰国した後、精力的に労働組合運動を行ったが、その大正10年の労働争議の後、労働組合運動の表舞台から身を引いたと考えられている。さて、その大正10年7月の大労働争議の直後ともいえる8月に、写真のような記念バッジが作成されていたのだ。よく見てみると、友愛会、関西労働総同盟のバッジに、「カール・マルクス」の肖像画がレリーフされているのである。
学芸員の仕事(キュラトリアルワークス)の一環として、このバッジの表記をラフであるが書き写した。大正時代であり、表記はヘブライ語のように右から左に読むようになっている(申し訳ない、面倒なので私の打ったテキストは通常通りである)。
今週月曜日に、東京都労働者福祉協議会の総会の際に、光栄にも私が記念講演会に登壇することになり、その席で、このバッジのことに少しだけ触れたので、皆様にもお伝えしようと考えた。
敗北に終わった大労働争議の後に、あえて「記念」として発行されたのは、なにを意図していたのだろうか。しかも友愛会の名前でマルクスの肖像画を入れて発行していたのはどういうわけなのだろうか?当時の思想的な未分化さをあらわすのか?もっと深い政治的な意図が隠れているのか?あってはならない、単なる間違いか?… いつか詳しく調べてみたい。(もちろんすでに詳しい方がおられたら、手っ取り早くお教え頂ければ幸いである!)
「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」 No.3 (日本週報468号より)
「有馬邸で近衛・賀川会談」
四月十七日には近衛首相のもとに、野村大使のハル私案に関する請訓が届いている。
終戦時の首相東久遠稔彦氏の「一皇族の戦争日記」(日本週報社刊)には当時の日本の外交について、つぎのように書かれている。
四月十八日(金)
(前略)松岡外相の訪欧は独伊訪問が主目的でなく、日ソ交渉が主たる目的であった。日ソ交渉は行き悩んでいたが、最後の瞬間に急転して中立条約を締結するに至った。この日ソ中立条約の英米文に与えた影響ははなはだ大である。現在、野村駐米大使も、米国ハル国務長官との間に、日米関係改善について少しずつ話を進めつつある。使節団一行はアメリカ各地を回って、六月に帰国した。何十万、いや何百万、何千万という多数のアメリカ人の心に、平和の維持と日米親善を吹きこんで帰ったのである。スタンレー・ジョンズ博士はルーズベルト大統領に、日本の人口問題解決のためにニューギニアを譲渡すれば、日米間の平和は維持されるだろうと提案するなど、さまざまな平和維持のための世論がアメリカに生れた。アメリカの教会関係者や平和主義者からは、使節団の帰国後、激励と感謝の手紙がぞくぞく送られてきた。一行の渡米の目的はいちおう達せられ、アメリカの世論は軟化したのである。だが、これら日米両国の人々の善意と友情は、国際外交という無情な鉄槌によって、打ちくだかれることになる。
「外相の許可はあてにならぬ」
ともあれ、日劇地下の喫茶店での決定に従って、筧氏は早速、賀川氏引出しの説得にかかった。はじめのうちはなかなかウンといわなかった賀川氏も、再三の説得にとうとう使節として渡米することを承諾した。「時期はすでに過ぎている。しかし世界平和のために、できだけの努力をしてみよう」賀川氏の承諾を得た筧氏は、つぎに、キリスト連盟総監事の都田常太郎氏を訪ね、実情を話して協力を頼みこんだ。都田氏はこの話を聞いて大いに喜び、すぐに同連盟の名誉監事で、著名な親日家である、アキスリン博士を招いて相談した。博士ははじめ、憲兵隊に検挙されて釈放されたばかりの賀川氏では、政治的な臭みがあるとして、アメリカ側が不安を持つのではないかと言って、賀川氏の派遣に賛成しなかった。しかし博士も、賀川氏のアメリカでの人気を知っており筧氏の説得もあって、結局、賀川使節を送ることに同意した。しかも都合のよいことには、これより先に、キリスト連盟の日米関係委員会でも、独自にアメリカへ使節団を派遣する予定であった。
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