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賀川豊彦記念 松沢資料館の学芸員による雑記帳です。仕事上の出来語や、最新のイベント情報などを掲載します。(個人的な見解であり、資料館としての公式な見解ではありません。)
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10/25(土)、午前中にはグループでの来館者が予約されており、その方々への館内ガイドを終えてから、午後、国連大学ウ・タント・ホールへと向かった。世界連邦日本大会へ出席のためである。戦後以来、賀川豊彦の貢献した運動は、連綿と今も続いているのである。

今大会についての詳細は、すでに広報委員長が別途ブログに記載済みであるので、そちらをご参照頂きたい。

http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20081029

大会中触れていたが、麻生総理が国連演説の中に、日本の世界連邦運動が開催した、中東の子どもたちの交流会を紹介して下さっていたことには誠に感銘した(上記URLに記事あり)。世界連邦宣言をした一地方自治体の首長が提案したことが、特筆すべき世界的な貢献として、総理大臣の国連演説にまで取り上げられ、世界中に紹介された事実には、地道な世界連邦運動の重要さを覚えずにはおれない。 

上記URLの必読を乞う!

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10/24(金)、2009年東京プロジェクト広報委員長とともに、某大手出版社を訪問して、賀川豊彦の「死線を越えて」の、再販について折衝させて頂いた。すでに2年越し(話の発端からは3年越し)の課題である。昨年春では、採算の課題も大きく、継続折衝のままであったが、一年でいまや世相は激変している。

米国大手の金融機関破綻から、世界規模での経済危機、そして若者らになぜか耽読される「蟹工船」など、どうみても賀川の「死線~」は、いまこそ同時代的と思える。その空気を察知してか、編集者は来月の会議に提案してみるとのことであった。吉報を祈るばかりである。

10/18(土)に、長野県佐久市岩村田にある、小雀保育園のご一行様がご訪問くださった。
「昭和23年に日本を代表する大伝道者賀川豊彦先生が「二羽の雀」 という本の印税で建ててくださいました。」と同園のHPには謳われている(下記URL参照)。

それ以来、ありがたいことに、当館は物心共にご支援頂いている。

観光バスで到着され、あいにく当館には大型車が入れないので、甲州街道近辺を運転手に周回して待機して頂き、園長以下職員の皆様には徒歩でお越し頂いた。

館長のレクチャーとビデオ上映後、館内をご案内させて頂いた。返礼かのように職員の皆様には、園歌をご唱和頂き、拝聴させて頂いた。園の温かい雰囲気が伝わって来た。

お土産にとおいしい長野の林檎を頂戴した。職員と当館近くにある福祉法人雲柱社の保育園とで分けさせて頂いた。賀川の関係する長野の園から、賀川関係する東京の園の子どもたちへ、土地の産物を頂いたのだが、これも食の交流とでもいうのであろうか。お返しに浅草の雷おこしでも下町から送れれば、食物文化やギフトという喜びが、子どもの育ちに役立つかもしれない…などと勝手なことを考えてしまう。

物理的距離はあるが、同じ賀川精神から始まった施設同士、なにかの形で今後も様々な交流を活発化させて頂けたら感謝である。

小雀保育園 : http://www9.ocn.ne.jp/~kosuzume/shokai.html
しばらく、記述をサボってしまった。「サボ」ということばは、サボタージュから来てるが、もともとはフランスの労働争議で労働者が木靴(サボ)で機械を壊したからだそうである。{広辞苑} 賀川関係の資料を読みこんでいると、そのあたりの言葉が飛び交うので面白い。とにかく、拙いブログながらも、もしも楽しみにしておられるかたがいたら、大変申し訳なく思うところである。

さて、先週火曜日には、鳴門市の賀川記念館の館長さんがお訪ね下さって、賀川豊彦の関係した事業展開図の訂正について、協議させて頂いた。その際、賀川が戦後立ち上げた財団にはふたつあり、一つが、国際平和協会であり、もう一つが道義新生会であるという話題になった。そこで鳴門館の館長氏は、道義ということばから派生して、現代の道徳観念の乏しさを嘆かれた。この方は国立の教育大学で長く教鞭をとられていただけに、その悲観的にさえ感じる世相状況を映した言葉には、痛みのような重みを覚えた。


これも、賀川豊彦全集月報からの引用である。日米会談のことは多くの人の情報は飛びかう。今後はこれらをきちんと整理してゆく必要があろう。しばらく目につく限りご紹介したい。その後しっかりと歴史的検証をした上で、開戦直前に賀川が関わった日米会談の顛末をまとめてゆきたいと思う。
 
 
月報12 昭和38年8月 第23巻添付
 
「日米会談の舞台裏」             阿久沢英治
 
 昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、「阿久沢君、日米会談をどう思うか」という質問を発せられた。その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国民を挙げて心を痛めていたのであった。日米会談というのは、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公が事変の収拾をもてあましていたおりから、十五年十一月二十九日、米国カトリックの最高学校メリーノールの事務総長でカトリックの神父補助監督ドラウト師が産業組合中央会理事井川忠雄氏と会見したのに端を発し、近衛ルーズベルト会談の案が持ちあがり、その計画は近衛総理の共鳴となり閣議を動かし、十六年一月二十三日野村大使の特派にまで進展し、ついで井川氏及び当時陸軍軍事課長であった岩畔泰雄氏等の出発となったのである。
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プロフィール
HN:
賀川資料館 学芸員 杉浦秀典
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/10/06
職業:
博物館学芸員
趣味:
資料整理、バイク
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