[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
当日は、夕刻6:00からの開催であったが、30分ほどまえに到着した。最近起きた殺傷事件の影響か常にそうなのかわからないが、物々しい警戒を印象づける国会議事堂を通り過ぎ、すっかり陽の暮れた中でも、煌々と明かりの灯された憲政記念館に到着した。
すでに受付がはじまり、ちょうど車で到着された、世界連邦運動協会会長で、参議院協会会長の植木先生に玄関先でばったり会い、ご挨拶を交わしつつロビーに入る。すると、すでに大物議員が来るせいか、複数の業界用大型カメラの視線を浴びせられる。どうも市井の庶民である自分には、どうふるまっていいのか戸惑うばかりのなか、逃げるように受付を済ませ、会場に入っていった。
会場は約500名ほどの入るところだが、ここでも背後と側壁には、報道関係者のカメラが蠢いている。あまりの多さに圧巻されるが、着席してしばらくした時、なんと来賓席には日野原重明先生が腰しかけられる姿を視界がとらえた。まだ開始までの余裕もあり、来年の献身100年記念事業のキックオフパーティのゲストとして、スピーチをお引き受け頂いている手前、きちんと挨拶をしに行くことにした。加山館長の挨拶に続いて、筆者も名刺を渡して、元の席で着座をする。その後定刻通りに記念会が始まった…
相馬さんは、国際MRA日本協会副会長を担われていた。資料館ニュース47号の巻頭言をご寄稿頂いている。残念ながら去る11/8、父行雄氏の生誕150年式典を直前にして急逝されたとのことである。
謹んで、ご関係者の皆様に、哀悼の意を表すばかりである。
MRAは、「軍備の再武装ではなく道義と精神の再武装(Moral and Spiritual Re-Armament)を」との、オックスフォード大学のフランク・ブックマン博士の提唱(1938)から、ロンドンにてMoral Re-Armament(MRA活動)として発足している。日本では1975に土光敏夫氏を会長として日本協会が発足している。過去には、岸信介、福田赳夫、中曽根康弘、ほか政財界有力者がMRA運動に関わりを持ち、尾崎行雄財団との協力関係も長い。
「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」 No.3 (日本週報468号より)
「有馬邸で近衛・賀川会談」
四月十七日には近衛首相のもとに、野村大使のハル私案に関する請訓が届いている。
終戦時の首相東久遠稔彦氏の「一皇族の戦争日記」(日本週報社刊)には当時の日本の外交について、つぎのように書かれている。
四月十八日(金)
(前略)松岡外相の訪欧は独伊訪問が主目的でなく、日ソ交渉が主たる目的であった。日ソ交渉は行き悩んでいたが、最後の瞬間に急転して中立条約を締結するに至った。この日ソ中立条約の英米文に与えた影響ははなはだ大である。現在、野村駐米大使も、米国ハル国務長官との間に、日米関係改善について少しずつ話を進めつつある。使節団一行はアメリカ各地を回って、六月に帰国した。何十万、いや何百万、何千万という多数のアメリカ人の心に、平和の維持と日米親善を吹きこんで帰ったのである。スタンレー・ジョンズ博士はルーズベルト大統領に、日本の人口問題解決のためにニューギニアを譲渡すれば、日米間の平和は維持されるだろうと提案するなど、さまざまな平和維持のための世論がアメリカに生れた。アメリカの教会関係者や平和主義者からは、使節団の帰国後、激励と感謝の手紙がぞくぞく送られてきた。一行の渡米の目的はいちおう達せられ、アメリカの世論は軟化したのである。だが、これら日米両国の人々の善意と友情は、国際外交という無情な鉄槌によって、打ちくだかれることになる。
「外相の許可はあてにならぬ」
ともあれ、日劇地下の喫茶店での決定に従って、筧氏は早速、賀川氏引出しの説得にかかった。はじめのうちはなかなかウンといわなかった賀川氏も、再三の説得にとうとう使節として渡米することを承諾した。「時期はすでに過ぎている。しかし世界平和のために、できだけの努力をしてみよう」賀川氏の承諾を得た筧氏は、つぎに、キリスト連盟総監事の都田常太郎氏を訪ね、実情を話して協力を頼みこんだ。都田氏はこの話を聞いて大いに喜び、すぐに同連盟の名誉監事で、著名な親日家である、アキスリン博士を招いて相談した。博士ははじめ、憲兵隊に検挙されて釈放されたばかりの賀川氏では、政治的な臭みがあるとして、アメリカ側が不安を持つのではないかと言って、賀川氏の派遣に賛成しなかった。しかし博士も、賀川氏のアメリカでの人気を知っており筧氏の説得もあって、結局、賀川使節を送ることに同意した。しかも都合のよいことには、これより先に、キリスト連盟の日米関係委員会でも、独自にアメリカへ使節団を派遣する予定であった。
以前、賀川の日米開戦前秘話として、賀川の平和使節団を何度か取り上げた。その総括的な資料があるので、そちらを掲載してみたい。当初は文面そのものは避けて、概要を筆者が報告というかたちで掲載するつもりであったが、やはり客観的な歴史的検証をしてゆくには、多くの方と資料を共有し、そこから研究や議論を発展させねばならないと考え直すに至った。そこで、資料の記述をのまま掲載するので、あとは皆様のご裁量にお任せしたいと思う。
「もう隠す必要はない 賀川ミッションの秘密」No.1(日本週報468号より)
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |